イラク戦争
イラク戦争(イラクせんそう)は、2003年3月19日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わり、イラクに進攻した戦争である。中国国務院が発表する「2007年アメリカ人権記録」によると、2003年以来イラク平民死亡数は66万人以上。ロサンゼルス・タイムスの統計によると、100万人も上回る。
(Wikipediaより)
防衛費の国際比較
アメリカ国防総省の「共同防衛に対する貢献」(04年版)というレポートによると、日本の駐留経費負担は、44億1334万ドルで、ドイツの2・8倍、韓国の5・2倍、イタリアの12倍になっている。日本の駐留経費負担の金額は、日本を除く26の同盟国全体よりも大きいのです。
日本に駐留する米兵の数が多いから負担が大きいのではない。駐留米兵1人当たりの負担でみても、日本は10万6千ドルで、ドイツの4・9倍、韓国の4.9倍、イタリアの3・8倍になっている。
さらに、米軍駐留経費の何%を同盟国が負担しているのかでみると、日本は75%、ドイツは33%、韓国は40%、イタリアは41%と、やはり日本は突出している。
(データは「しんぶん赤旗」2006年2月21日による。
なぜ志願制なのか
神野直彦『人間回復の経済学』
社会がどんどん発展していくと、国民は飢餓の恐怖から解放される。そう真剣に働かなくても生きていけるようになる。そうなると、みんなあまり本気で働かなくなる。今起きている、フリーターやニートなどの現象は、まさにそれである。
そうした状況で資本家の側、すなわち経営側はどう考えるかというと、「彼らを貧乏にすることで飢餓感を復活させ、働かせよう」と考える。
その例をあげると、79年に誕生した元祖新自由主義政権・サッチャー政権は、「構造改革」の名のもとに小さな政府を目指し、税制改革を行った。金持ちは減税し、低所得者は増税したのだ。
その後につづいた他の国の新自由主義政権の構造改革も、この路線ではみな一貫していた。小泉内閣の本質もまさにそうである。
低所得層を作りだすもう一つの目的
アメリカの「徴兵」方法
赤木智弘「31歳フリーター、希望は、戦争」
反発と絶望 極論生む フリーター『戦争を希望』東京新聞008年5月3日 朝刊
「自分は今でも戦争を求めている」。赤木智弘さん(32)は、きっぱりと言った。「戦争で死ぬのと経済的理由で死ぬのは、自分にとって同じこと。今のままでは、どうせ寿命はまっとうできない」
栃木県佐野市のファミリーレストラン。昼下がりの店内には女性のおしゃべりが響き、窓の外は買い物客が笑顔で行き交う。
年収約百五十万円。地元のコンビニで働く赤木さんは一昨年暮れ、「31歳フリーター。希望は、戦争。」という論文を月刊誌に発表した。「非正規労働者がはい上がれない社会が続くのなら、戦争で大勢の正社員が死なない限り、自分は正社員にはなれない」。極論を真っ向から世間に突き付け、多数の知識人らから「格差社会の不満のはけ口に戦争を希望するとは暴論」などと批判を浴びた。
一九九六年にコンピューター専門学校を卒業したが、バブル崩壊後の就職氷河期で職に就けなかった。一、二年のつもりで始めたフリーター生活は十年以上に。実家暮らしだが「年老いた父親が働けなくなれば、生活の保障はない」と言う。
過酷な人員削減を経て、産業界は戦後最長の好景気に転じても非正規雇用を増やし続けた。今や労働者の三人に一人が非正規。格差と不安が急速に広がる。
神奈川県相模原市の派遣社員斉藤要さん(24)は、インターネットで赤木さんについて論じ合う「掲示板」を主宰する。派遣先企業での仕事はホームページのデザイン。月給十四万円で昇給はない。
昨年、掲示板のメンバーと会合を開いた。「おまえはまだ恵まれている。オレなんか…」と、貧困を嘆き合う場になったという。「今の生活から抜け出そうとしても、皆どうしていいか分からない。自分も、ある会社の面接で、携帯電話を持っていないだけで落とされた。『いっそ戦争でも』と思ってしまう」。斉藤さんは伏し目がちに語った。
「赤木さんは被害者意識が強いと思う」
団塊世代の大量退職で空前の売り手市場といわれる中、就職活動に飛び回る東京都の法政大四年、西正光さん(21)は続けた。「でも自分も同じ境遇だったら、『世の中がひっくり返ってほしい』と考えるかもしれない」
西さんが、赤木論文で共感したくだりがある。貧困にあえぐ人たちに「世間は『努力が足りないからだ』と嘲笑(ちょうしょう)を浴びせる」−。
西さんはある食品メーカーに応募書類を送った時、一橋大四年の友人と志望動機などを一字一句同じに書いたら、友人にだけ面接通知が来た。「安定した地位にいる人が口にする『努力』って、一体何だ?」と思った。
「今の好景気で正社員になれた学生も、人件費を削るうまみを知った企業には将来のリストラ候補」と赤木さんは断じる。「だから『一部の人間を犠牲にするような社会体制に変化を』と呼び掛ければ、正社員の彼らも分かってくれるはず」と言う。
極論の奥に渦巻く世の中への反発と絶望。二極化する社会で息苦しさがいっそう増す。 (菊谷隆文)
マガジン9条 森永卓郎の戦争と平和講座 2005/05
今回は、構造改革派(市場原理主義)と戦争肯定派がなぜ重なるのかということを、日本の歴史から考えましょう。
1920年代と1990年代の日本の経済・社会は驚くほど似通っています。1920年代は、第一次世界大戦によるバブルの崩壊で、ゆるやかなデフレが続いていました。そこに1923年の関東大震災が追い討ちをかけ、1927年には金融恐慌が発生しました。
1990年のバブル崩壊でも、1994年から日本経済は緩やかなデフレに陥りました。1995年には、そこに追い討ちをかけるように阪神大震災が発生し、そして1997年には山一證券や北海度拓殖銀行が経営破たんする金融危機が発生しました。
デフレは経済を疲弊させ、国民生活は荒廃します。そこでは、経済不振を脱却しようとする模索が始まります。1920年代には、経済不振の原因は大正バブルで経済界についた贅肉が原因だということになりました。そこで、財界には、生産性の低い企業を整理して、より強い企業に生産を集約しようとする機運が生まれました。当時、それは「財界整理」と呼ばれたそうです。
1990年代の日本でも同じような考え方が広がりました。特に、1999年の経済白書は、日本経済の再生のためには、雇用、設備、債務の「3つの過剰」の整理が必要という考え方を示したのです。この思想によって、問題企業を整理することや、リストラを行うことに錦の御旗が与えられました。
ところが1920年代も1990年代も、デフレは思うようには解消しませんでした。街には失業者があふれ、生活はどんどん苦しくなって行ったのです。
そうしたなか、1929年に政友会の田中義一首相に代わって就任したのが、野党の民政党総裁だった浜口雄幸でした。浜口首相は就任と同時に改革に取り組みます。一つは、財政再建のための歳出カットです。軍事費の大幅な削減を含む歳出の徹底的な見直しを行うことで、就任の翌年度の予算を無借金で組んでしまうほどでした。もう一つの改革は、金本位制への復帰でした。第一次世界大戦後の不況で、先進各国は金兌換を停止しましたが、20年代末までに、ほとんどの先進国が再び金本位制に復帰していました。グローバルスタンダードへの追従を目指す浜口は、金本位制への復帰、しかも強烈な金融引き締めとなる 旧平価での金本位制への復帰を断行しました。
デフレのなかで、財政と金融を同時に引き締めたのですから、日本経済は激烈なデフレに陥りました。純粋に経済学的にみたら、浜口の採った政策は今世紀最悪の暴挙だったのですが、旧勢力との対決姿勢を貫いた浜口首相は、国民の間ではヒーローになりました。浜口は国民に言いました。「明日伸びんがために、今日は縮むのであります。これに伴う小苦痛は、前途の光明のために暫くこれを忍ぶ勇気がなければなりません」。浜口率いる民政党は大不況のなかでも、国民の圧倒的支持を集め、総選挙で圧勝しました。
何を言いたいのか、もうお分かりいただけたと思います。「改革なくして、成長なし」という言葉に未来の希望を抱いた国民は、結局、所得の二極分化のなかに沈んでいきました。それでも、いまだに小泉内閣の高支持率は続いています。
人間というのは悲しい性を持っているようで、苦しければ苦しいほど、強いリーダーを求めてしまうのです。実はヒットラーも選挙で選ばれたのです。
浜口雄幸は、凶弾に倒れました。しかし、国民の熱狂が創り出した全体主義が沈静化することはありませんでした。浜口が総理の座から退いたあと、軍部は満州事変へと暴走していくことになったのです。